株価の続落日数記録のランキングです。日経平均株価が連続で下落した日数(営業日数)の歴代順位になります。 長期間の続落は、その後の相場の長期低迷の前兆になることもあれば、 上昇トレンドの中の一時的な調整局面に過ぎない場合もあります。 それぞれの記録の歴史的な位置づけや背景を振り返ることで、下落が続いたときも冷静に対処することができます。 スナップアップ投資顧問のレポートなどを参考に作成しました。


日経平均の連続下落日数の記録

日経平均の連続下落日数ランキング(歴代)
順位 期間 連続下落日数の記録
(営業日ベース)
概要、背景
1位 1954年
4月28日~
5月18日
15日間 朝鮮戦争後の景気低迷期。 戦後日本の産業界に需要増大をもたらした朝鮮戦争が前年の1953年7月に休戦となり、 いわゆる「特需景気」は1954年の初頭に終結を迎えた。

企業はリストラや在庫圧縮に奔走し、生産を縮小した。 1954年度の生産水準(鉱工業生産指数)は前年度比3.5%増で、 1953年度の同24%増に比べると、伸び率が著しく鈍化した。

当該続落記録が始まる前日(4月27日)の終値は351円67銭。 続落最終日の5月27日の終値は323円92銭だった。 下落率は7.89%。

この低迷期を乗り越えた日本経済は、 1954年末に「神武景気」に突入する。 まさに景気の踊り場を象徴する続落記録であった。
2位 1949年
11月14日~
11月29日
13日間 戦後の「ドッジ・ライン」による景気悪化の時期。 日本を占領していた連合軍総司令部(GHQ)がインフレ抑制のため財政と金融を引き締める「ドッジ・ライン」を実施。 日本はデフレ不況に陥った。

続落が始まる前日(11月12日)の終値は140.67。 続落最終日の11月29日の終値は118.40銭だった。 下落率15.83%という惨敗期間となった。

米国からやってきたジョゼフ・ドッジの提案により、GHQが新しい経済・金融政策を示したのは1948年(昭和23年)12月だった。 緊縮財政や復興金融金庫融資の廃止などが柱だった。 これによって、インフレ(戦後インフレ)は収束を迎えた。

しかし、こうした構造改革は一時的な景気悪化を招かざるを得ない。 戦後の再出発から間もなかった株式相場は、 大きな打撃を受けた。

この翌年の1950年(昭和25年)7月6日に、東証の日経平均株価は歴代最安値となる85.25円を記録。 これは現在にいたるまで史上最安値となっている。
3位 2008年
6月19日~
7月4日
12日間 リーマンショックの引き金となる「米サブプライムローン問題」と、世界的な資源高を受けた相場下落。

アメリカの景気拡大と信用バブルが終結する様相を見始めていた。低所得者向け住宅ローン(サブプライム)の焦げ付きに端を発して、米経済の先行きと国際金融への不安が拡大した。 同時に、石油や食糧など資源価格の急騰が続いていた。 このため、景気低迷とインフレが同居するスタグフレーションへの恐れが広がった。

輸出依存体質の日本経済が長期低落を余儀なくされる可能性を市場が読み込み始めた。 為替相場が円高に振れていたことで、2009年3月期決算は多くの企業が減益になると予想されていた。

続落が始まる前日(2008.06.18)の終値は、14,452.82だった。 続落最終日の2008.07.04 の終値は13,237.89銭だった。 続落による下落幅は8.40%だった。 この3か月後の9月15日にリーマンショックが起きた。
1953年
5月21日~
6月3日
ソ連(現ロシア)の独裁者スターリンが死去した後、朝鮮戦争が休戦するとの観測が強まり、特需への期待が後退した。 それに伴い、株式相場も調整期に入った。実際のところ、朝鮮戦争は1953年7月27日に休戦した。

続落が始まる前日(1953年5月20日)の終値は、350.88だった。 続落最終日の6月3日の終値は321.79銭だった。 続落による下落幅は8.29%だった。

1953年3月に最初にスターリン死去が報道された際に「スターリン・ショック」が起き、相場は暴落した。 翌月の4月に日本株はいったん盛り返したが、5月中旬ごろからまた下落に転じた。 休戦に伴う需要減を事前に織り込む局面だったといえる。
5位 1965年
2月19日~
3月2日
10日間 オリンピック景気の大反動として起きた「40年不況」を象徴する続落相場。

前年の1964年(昭和39年)に東京五輪が開催されたが、 その直後から日本企業の「過剰設備」「過剰生産」が表面化した。

それを象徴するかのように、同年12月、 流し台や洗面台の大手サンウェーブ工業と、鉄鋼メーカーの日本特殊鋼が相次いで倒産。 いずれも戦後最大の大型倒産だった。

さらに、大手鉄鋼メーカーである山陽特殊鋼の経営危機説が浮上。 五輪バブルの余韻が残っていた株式相場はいよいよ現実を直視せざるを得なくなり、 1965年2月に下落基調に転じた。 続落開始前(1965年2月18日)の終値は、1241円41銭。 続落最終日の1965.03.02の終値は1202円54銭で、下落幅は3.13%だった。

この後、多くの証券会社が経営危機に陥る。 5月には戦後初めて山一証券に日銀特融が発動された。
1956年
8月7日~
8月17日
スエズ運河国有化による一時的な調整局面。

1956年にエジプトの大統領に就任したナセルは、7月26日にスエズ運河の国有化を行なった。 これにより、国際情勢が不安定になった。

しかし、神武景気の最中だったため、下落幅は小さかった。 10日間で507.31円から500.22銭からの下落。 下落幅はわずか1.39%だった。
7位 2009年
7月1日~
7月13日
9日間 リーマンショックの翌年の景気後退期。 国内経済は委縮し、派遣切りが拡大。 雇用情勢が急速に悪化していた。
2004年
9月15日~
9月29日
原油高騰による景気減速懸念が広がった。 9月中間期末が近付く中で機関投資家や証券会社の自己売買部門などの動きが鈍かった。
2002年
12月4日~
12月16日
1991年11月以来、11年ぶりの7営業日続落。 アメリカの株安に加え、外国為替市場で円高ドル安が進行したことを受けて、輸出依存度が高い電機、精密などが売られた。不良債権処理の先行き不透明感から、銀行株も総じて売られた。

続落した間の下落幅は754円17銭。1日あたりの平均下落幅は80円強。「真綿で首を絞めるようなじり安相場」(大手証券)だった。

この間、目だったのは商いの薄さだ。多くの証券会社が売買手数料部門を黒字にできる目安としている、1日7千億円(東証1部)の売買高を記録したのは、「裁定取引」の決済日という、特殊な要素が加わった12月13日だけだった。

クリスマス休暇に入った外国人投資家が売買を手控えていた面もある。 機関投資家の多くも買い材料が乏しいため、様子見となった。 大口の投資家が不在の中、長期にわたって保管していた「タンス株券」を持つ個人投資家が、証券税制の変更を前に換金売りを急ぐことで、株式の需給が悪化した。
1991年
11月13日~
11月25日
1968年(昭和43年)以来23年ぶりの9日続落。 バブル崩壊の到来を予兆させる軟調ぶりだった。

景気が減速し、企業業績も悪化する中で、金利低下への期待感が株価を支えてきた。 公定歩合の引き下げ観測が出てから日銀が利下げに踏み切るまでに時間がかかったこともあって、実際に公定歩合が引き下げられた11月14日以降、逆に「材料出つくしによる失望売り」が続く結果となった。 積極的な買い材料が乏しいうえ、機関投資家、外国人、個人投資家にも見送り気分が強まった。

この間、野村証券は損失補填の不祥事により、政府(大蔵省)から営業停止処分を受けていた。
1968年
10月30日~
11月8日
いざなぎ景気のさなかの調整局面。 アメリカではベトナム戦争が泥沼化し、 反戦運動が激化していた。 接戦となった11月5日のアメリカ大統領選を控えた様子見ムードもあった。 ベトナム戦争からの撤退を訴えた共和党のニクソン候補が勝利した。
1954年
1月12日~
1月22日
特需景気の終結に伴う経済の縮小ムードが強まり、 1954年は年明けから相場に不透明感が広がった。
1953年
3月23日~
4月1日
ソ連の最高指導者スターリン死去を受けた株価が暴落した1953年3月6日のスターリン・ショック。 その後も、株価の戻りは弱かった。

2月初めに474円で天井をうっていた日経平均は、4月1日に294円まで下げ進む。 わずか2か月間で4割もの一本調子の下落であり、この続落局面はその仕上げだった。
1949年
6月6日~
6月15日
戦後、東証が再開されたのは1949年5月16日だった。 この日から、株価を単純平均する方式で「東証ダウ平均株価」(現在の日経平均)が始まった。 スタート時点は176円21銭だった。 当時、実体経済はドッジラインによる引き締めの影響で悪化しており、 それを反映して誕生したばかりの平均株価も6月に大幅下落した。